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エキサィティングな人々 [つまらない]


「ワシはなあ、炭住で生まれ育ったと思うとる者もいるようだが、違うんよ。 
実はなあ、炭住があった敷地の一部にワシがトタンとダンボールで勝手に
家を造ったんよ。 要するに掘ったて小屋やな」


(炭住=炭坑住宅。 住宅とは名ばかりで、戦後の復興期を支えた労働者が住むにはあまりに粗末な建物だった)

「すぐ下の妹とまだオシメが取れん妹がおってな。 ワシが小学の3年やったが、
いつものようにおふくろが仕事先から真夜中に帰ってきてな、こう言うたんよ。 
『ヒデちゃん、突然のようだけど、あなたにはあなたの将来があるけど、私には
私の将来があるのよ・・・・。 だから、それぞれが頑張って生きていきましょう』
と、それっきりになったんよ」

「それまでの生活もひどかったが、その日から食べることだけでなく、幼い妹
二人の世話をしなければならなくなってなあ。 廃坑となった横穴の炭坑に
潜り込んでな、商品にはならんクズ炭をカゴいっぱいにして、それを街に売りに
行ったんよ。 いくらにもならんかったけど、それが一日の生活費だったんよ。
 
夜になるとな、月明かりだけを頼りに下の妹を背負ってな、近くの堤・・・
アンタも知っとるやろう、農作物を育てるために作った人工の池よ。 池というと
小さいイメージを持つやろうけど、三、四メートルの深さはあるでっかい貯水池よ。 
堤はどこでもそうやったろうが、すり鉢状になっとっての、足を滑らせたら一巻の
終わりよ。 で、何しにそんな危険なところに行くかというと、妹のオシメを洗うんよ。」


前述した掘ったて小屋にまだ母親と住んでいたときのことだった。 
二人の妹は一段高い板の間で母に抱かれるようにして寝ていた。 
溝下少年も母に抱かれて寝たかった。


「ワシもなあ、おふくろと一緒に寝たかったんよ。 土間にムシロを敷いて
寝とったワシはある日、泣いたら一緒に寝てくれるだろうと子供心に思ったんよな。 それでつい、シクシクとおふくろに聞こえるように泣いたのよ。 ほしたらな、
おふくろが『ヒデちゃん、アンタ、うるさいよ。 いい加減にしとき』。 ワシなあ、
その時からおふくろの前では決して泣くまいと決心したね」


中学を卒業した直後のことだ。 小学校3年の時に家を飛び出した母のことを
決して忘れることはなかった溝下少年は、風の噂を頼ってついに母の居場所を
見つけ出した。 筑豊から遠く離れた岡山に住んでいた。
母が住んでいるという長屋を訪ねると、あいにく留守であった。 長い間夢見て
いた母との再会である。 なんとしても会いたかった。 溝下少年が入り口から
少し離れたところで帰りを待っていると、懐かしい姿が目に映った。 7年ぶりの
出会いであった。


『あら、ヒデちゃんじゃないの、久しぶりね。 まあ、上がりなよ。 お腹すいてる
んじゃない?』
って、卓袱台の上にお茶漬けを出してくれたんよ。
ワシもなあ、もう胸がいっぱいで、お腹もすいとったけど少しだけ箸をつけた
ままでな。 じっとうつむきになったまま涙をこらえていたんよ。 そうしたらアンタ、
おふくろが『ヒデちゃん、 もったいないやないの。 食べんやったら私がいただく
からね』
と言って、いきなり食べ出したんよ。 
ワシはなあ、そのときつくづく思ったんよ。 間違いなくワシのおふくろや、ワシの
食べ残しをうまそうに食べるおふくろの表情を上目遣いに見ながらワシは嬉しくて
なあ」 

不思議なことだが、私は総裁の口から母を憎悪したり、ののしったりする言葉を
ただの一度も聞いたことがない。 ばかりか、母の最期を看て取り、立派な墓を
建立したという。

溝下少年の母への思いは終生変らなかったが、その一方でまだ見ぬ父の像に
思いを馳せた。 母は亡くなるまで溝下少年の父について何一つ語ることは
なかった。 総裁も母をそのことで、これ以上傷つけたくなかった。

平成二十年七月一日午後十二時十八分、稀代の英傑が永眠した。 
四代目工藤會・溝下秀男名誉顧問の闘病史は壮絶なものだった。 
余命を宣告されてから、どれだけ多くの歳月が流れただろう。 いったい何回、
大手術をしてきただろう。 その手術は一度経験した者なら、相当な剛の者でも
二度とは味わいたくないほどの「拷問」だと専門家から聞いた。 人間の限界に
挑む「死ぬよりつらい」手術を名誉顧問は決然として、何度も何度も繰り返した
のである。
しかし、悲壮感など決して漂わせたりはなかった。 冗談が好きで、死病と
闘っている病床にあってさえ、見舞い客をゲラゲラと笑わせた。 

(以上全文を勝手ながら実話時代9月号より抜粋させていただきました。)


私の人を図るモノサシは、その人がエキサイティングな生き方をしているか
どうかです。 ヤクザであろうと総理大臣であろうと関係ありません。 
寝たきりの人だって「歩ける人」より数段エキサイティングな人はたくさんいます。 

私にとって「極道一番絞り」の著者であるということしか知らない溝下秀男と
いう人は間違いなく超エキサイティングな人だったと思います。 
ご冥福を祈ります。 

今日はほんとに勝手な私の関心事を載せてしまいました。 溝下氏に関心の
ない人にとっては、きっと、誰それ?だと思います。 
最後までお読みいただいた皆さん、お礼申し上げます。

さて、私は・・・といえば、エキサイティングの正反対・・・ああ。

それではごきげんよう。 
(暑い日が続いています。 どうぞ御身体御自愛くださいね) 


 _さやか_NEW.jpg
 (娘のほうがよっぽどエキサイティング!新潟祭りにて)

 


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toyo

ijimariさん、nice!ありがとう。
今回は、ブログ向きじゃない記事を承知のうえで書いてしまいました。
だから私のメモみたいなもの。反応がなくて当たり前。
だって溝下総裁って九州一のヤクザですからね。個人的な面識はもちろん何もありませんが、その生き様に私はけっこう衝撃を受けました。
職業で人を差別する気はさらさらありませんが、誤解されやすい記事だったとは思います。
だから、たった一個のnice!でも私には金メダル。
ほんとにありがとうございました。


by toyo (2008-08-18 08:36) 

たいせい

 私の幼い頃(と言っても昭和40年代ですが)の記憶をたどっても、様々なバイタリティ溢れる人が身の回りにいたように思います。
 昔に比べれば今の日本は遙かに恵まれており、意気消沈している場合ではないのでしょうね。
by たいせい (2008-08-19 14:12) 

toyo

たいせい 様

もと高校野球の監督でヤクザでもあった山本某氏が・・
「今の世の中、屁のようなもんだ。やろうと思えばなんだって出来る!」
といっていたのを思い出しました。
ヤクザを励賛する気はさらさらありませんが、彼らのバイタリティだけは素直に見習わなくっちゃ・・と思っています。

たしかに、昔は身近に溢れる人がいっぱいいたような気がしますよね。
どうも(自分も含めて)元気のない人が多すぎるようです。
だからチャンスな時代なんだ、って思うようにしていますが。
まあ、お互い頑張りましょう!ピンチはチャンス!
コメント&ナイスお礼申し上げます。
by toyo (2008-08-19 20:41) 

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